江戸時代は、税金という過去目の取り立てが厳しかったようなイメージが漠然と有るが、決して税は厳しくなく、一揆なども実際には殆どなかったようです、第一、納税の義務は、農民だけで、コメだけなので、コメ以外の雑穀や野菜を作っても納める義務はなかったのです、だから、こめを取り立てられても自分たちは、そばや麦、雑穀を食っていれば、飢饉のようなことにはならなかったようです。第一不思議ですが、江戸の庶民は、コメを作っていないので、コメを納める義務もないし、税金そのものがなかったようです。だから、農民は、イモ類や豆類なども植えて、喰えば、ひどいことにはならなかったようだ、しかし、農民には、人頭税や、労働の義務なども課されていてのかもしれない、江戸は、町民で、地方は農民なので、江戸と地方では状況は異なるだろう、大人一人あたりいくらという、税が課されたのか、老人になって働けなくなると、重税となってしまうので、老人になると身を隠すように、姥捨て山にいく、習慣があったようだ、文字通り山に年老いた親を連れて行ってすててくるわけではない、どうやら、山寺などで老人たちが共同で生活していたようで、自分たちの分を自給自足していたようなのだ、しかし農繁期になると、里下がりなどと称して、自宅に帰り農業を手伝い、米や野菜を分けってもらい戻ったようなのだ。昔話として、岩手でも各地に伝わっている。働けない年寄りの分の年貢や使役を逃れるために、姥捨て伝説が作られ利用されていたようだ。コメの収穫の何割かを収めるだけなら、それほど厳しくはないかもしれないが、お城の建築や、河川工事など、1軒の家の大人の人数かける何日などという労働役がある場合には、大変厳しいことになる、一人10日という場合、一人しか働けない場合、1件の家の家長が20日働くことになる、農閑期にはなんとかなるとしても、農繁期などなら、今度はコメが栽培できず、年貢の取り立てが厳しいことになる。農民い税が課されているのに、江戸の町人に納税の義務がないことに不公平だとも言わずに、300年も文句を言わないことに不思議を感じる。もちろん、現代人おような構成感というものは持っていなかったろうし、納税の義務などという概念もなかったろう。歴史の授業で、昔、一気があった飢饉があったなどということを習ったことがあると思うが、実際には、デマが多かったようだ、飢饉は、大げさになることで、年貢を減らす効果などはあったかもしれない。今あたらしい事実が発見されて、日本お歴史は、日々変化しているらしいので大変面白く興味が湧く。